――帰るぞ。

 夕暮れの濃いオレンジの光を全身に受けた先輩の、その瞳はもう私を映してはくれなくて。
 先を歩く彼の背中は、何もかもを拒絶するような、そんな雰囲気を纏っていた。

 玉依姫と守護者。そこには強い絆と同時に、私の想像を遥かに超えるような暗く因縁めいた何かがあるのだと
 呪いにも似た恐ろしい気配を先輩に感じて

 私は少し、彼らが、鬼切丸が怖くなった。


 『わたしの物語』異変


「――あれ?」

 放課後。教室から何気なく覗いた窓の、その向こうに見知った後ろ姿をみつけては首を傾げた。
一人でヨロヨロと、どこか調子が悪そうに見える人物は今まさに校門を抜け外へ出ようとしていて……は「なんで」と呟くと
慌てて教室を飛び出し廊下を駆けた。
 彼女の、珠紀の近くに守護者が見当たらなかった。一人にしてはいけない筈なのに、どうして誰もついていない。
 胸の中がざわざわする。危険だと頭の中で声が響き、は慌てて真弘を探そうとして……立ち止まった。
 先日真弘から一人で行動するなと言われたから、だから先輩を探そうと思った。けれど、先輩を呼ぼうとした途端
あの時の彼の瞳を思い出して顔を見るのが怖くなってしまった。

「なにやってんだろ……」

 一番に珠紀のことを心配しなければいけないのに、こんなことに怖がっちゃって。
 イカンイカンと勢いよく頭を振って無理やり気持ちを切り替えて、は再び走り出す。鴉取先輩と会いづらいなら屋上へ行こう
きっと鬼崎くんがいるはずだ。
 頭の隅に残る先輩の、切なくて苦しくて泣きそうな顔――。ああ、ホント何やってんだ、私。
 心臓が恐ろしく跳ねるのも構わず、は記憶を振り切るように勢いよく階段を駆け上がり、屋上の扉のノブに手をかける。
 どうかどうかこの先に、鬼崎くんがいてくれますように。そう願っては、力いっぱい鉄の扉を開いた。

 ***

「……ハァハァハァ。いた、おにざきく……!?」

 屋上に目当ての人物を見つけ、は荒い呼吸を繰り返しながら彼の名前を呼びかけて……止める。
 確かに拓磨はそこに居たのだが、屋上に一人佇む彼の姿はあの日の真弘と同じく、この世の全てを遠ざけているようで寂しげで。
 この人も守護者であり、鬼切丸に関わる人なのだと改めて感じて、は『くっ』と唇をかみ締めた。
 鬼崎くんなら……。そう思った自分がバカだった。あんな姿を見せられて声などかけられるはずがない。
 の脳裏にあの日の真弘の瞳が蘇る。何も映さない空虚な瞳、もしこちらを向いた拓磨が同じ目をしていたら……。
自分はきっと耐えられないだろうと、は無意識に身体を小さく震わせ、一歩、後退った。

 ――やっぱり一人で追いかけよう。

 きっと鴉取先輩に怒られてしまうだろうけど、それはそれで仕方ない。
 そう思って身を翻し、たった今上ってきた階段を下りようと足を踏み出したところで

「……何やってんだよ、おまえ」

 の背後から、呆れたような拓磨の声が聞こえてきた。

「お、鬼崎くん……」
「なんだよ、俺に何か用があって来たんだろ?」
「う、うん。まあそうなんだけど……」

 が頷くと、先を急かすように「だったら早く言えよと」拓磨が眉をしかめる。乱暴な言葉使いだけど、端々に自分のことを心配するような気配を感じて
良かった、いつもの鬼崎くんだとはほっと息を吐いた。

「あ、あのね。珠紀さんが」
「珠紀がどうした」
「ついさっき、一人で学校を出て行ったの」
「一人で? 他の守護者はどうした、傍に居なかったのか?」
「私の見る限りでは。だから――」
「……追いかけるぞ!」

 言うや否や拓磨は凄い速さで駆け出して鉄の扉を開き、階段を下りて行く。そんな彼の素早さに驚きつつもは「待って! 」と叫ぶと慌てて彼の後ろを追いかけた。

「行き先は! 分かるのか!!」

 階段を駆け下り、廊下を抜け、校舎を出たところで走りながら拓磨がに訊ねた。

「う、うん! 多分だけど――こっち!!」

 走りながら胸に片手を当て、が叫ぶ。私の中にあるこの刀は珠紀さんの為にある。だからそれが反応する場所に
彼女はいるはずだと走りながら答えるの横顔を拓磨は驚きの表情で見つめた。

「おまえは……」

 小さな声で何かを言いかけて拓磨は口を噤む。そんな拓磨の顔をチラリと見て、は彼が何を言おうとしたのか考えた。
 ひょっとしたら鬼崎はこう言おうとしたかったのかもしれない「おまえは一体何者なんだ」と。

 ――私にもわかんないよ、鬼崎くん

 不思議な刀、それを操る私。記憶もなく知らない何かに命じられて珠紀を守る。
 知りたいと思う。自分が何なのか、私は何のためにここに居るのか。けれど、今は――
 それよりも珠紀を追いかけることだと、は頭の中の想い振り払うようにぐっと拳を握り、刀の導く方へひたすらに駆けた。
 
 ――いた!

 森の奥、それよりも更に奥へ走ると二人の前に見慣れた背中が二つ見えた。
 その一人が自分達の探している人物だと確認して、はうん、と頷くと拓磨の名前を叫んだ。

「鬼崎くんっ!」
「わかってる!!」

 珠紀が見つかったことに安堵している場合じゃない。前方で立ち止まる二人は確実に危険な何かと対峙している。
 二人の前方に渦巻く強力な霊気。オボレガミとは違う、どこか不吉で禍々しい気配には焦り、それに呼応するように拓磨は走るスピードをあげ
勢いよく飛び上がると二人の前方へ踊り出た。

「……ケンカなら、俺の出番か?」
「珠紀さんっ、無事!?」

 二人を背に、ニヤリと笑う拓磨から少し遅れて珠紀の前に到着すると、は彼女を背に庇い身体から引き出した刀を構える。
 古いヨーロッパ風の衣装を着た銀の髪の男と黒い髪の男が目の前にいて、見たことのない彼らに言いようのない違和感を感じ、は眉を顰めた。

「珠紀さん。……あれは、誰?」
「……ごめん、知らない」

 の背後で珠紀が震える。何も知らない分からないと呟く珠紀の声を背中で聞いて、は「分かった」と頷いた。
 鴉取先輩と鬼崎くんの様子からして、彼らもどうやらあの人達のことを知らないように見える。新手の敵なのだろうか?と思ったけれど
相手から感じるチカラは多少違和感があるものの、普通の人間のように見える。けれど普通の人間はこの森に入れないはずだと
は得体の知れない相手をぐっと睨みつけた。
 
「ここから先は、関係者以外立ち入り禁止だぜ」

 告げる拓磨の声を気にする素振りも見せず、二人は無言で先へと足を進める。途端にバチバチと激しい音と共に青い光が何度も二人を包むけれど
何の痛みも感じないのか二人は、眉一つ動かすことなく歩き続け、言いようの無い緊張感にはゴクリと喉を鳴らした。

 なんだ、これは。一体この人達は何をしようとしているのだ。刀を握った手の中に汗が滲む。
 今まで感じたことの無い不安に心臓が鳴り、それが静かな森に大きく響いているような気がして、無意識に身体が震えた。

 落ち着け。何度も自分に言い聞かせては荒くなった呼吸を整えようと深く息を吸い込み、吐き出す。
 鬼崎くんの静止の言葉も聞かず、森の奥にある何かを守るように放たれた攻撃をものともせず進むこの二人が味方であるはずが無い。
 それは分かる、分かるけれど……一体この二人は何をしようとしているんだ。この先に何がある?
 今まで感じていたものとは違う森の気配。神聖で、けれどどこか禍々しく、まるでそれは……
 
「封印……」
「――え?」

 突然に答えるように後ろで浅い呼吸を繰り返していた珠紀が小さく呻いた。封印? 封印ってあの? 鬼切丸に関係ある、大事な……。
 ゾクリ。と、今までとは比べ物にならない程の嫌な予感が胸の中を駆け巡り身体が震える。
 この先に、本当にそれがあるのなら、この二人は封印に関わっている可能性が高い。
 オボレガミとは違う未知の敵。それが今、自分の前にいる二人だとするなら……。

 初めて人らしき敵を目の前にして、は自分の足が急に重くなったように感じられた。前に出ようと思うのに足が動かない。なんて情けない。
 けれど同時に、安堵するような感情が自分の中にあっては戸惑った。自分の持つ刀には刃が無い。
 けれど使い方によっては、充分殺傷能力のあるそれを振り上げ、斬りかかるなんてできるのだろうか。
 正直、自分が死ぬかもしれないということより、この刀で人を殺めてしまうことが――怖かった。
 沢山のオボレガミを倒しておいて今更何をと言われるだろうけれど、理不尽だと言われようとも人に刀を向けるのは怖いのだと
はぎゅっと唇を噛み締めた。

 けれど玉依姫を、封印を守ると誓った以上、自分は逃げることなどできない。

「……逃げるなんて絶対にしないけど」

 フッと軽く笑って震える手元に力をこめ、今は何も考えまいと緩く頭を振る。そして未だ結界の中を進む二人を睨み付けた。
 
 これ以上、先へ進ませてはいけない。そのことだけを考えて、摺るように足を前へ出す。
 先に飛び出して行った真弘と拓磨を追いかけなければと息を吐き、地面を強く踏み込んで前へ出たその時
 何かを決意したような眼差しの珠紀がよりも先に前方へと飛び出した。

「た、珠紀さん! ダメっ!」
「……帰りなさい」

 今にも倒れそうなぐらいに顔を青くした珠紀が、けれど強い眼差しで言い放つ。
 体調の悪さかそれとも恐怖からなのか、身体は震え、声も少し掠れているのに放つ言霊は強い意志を持っていて。
 その声が耳に届いたのか、途端にその場に居る全員がピタリと動きを止め、珠紀へと目線を向けた。

「帰りなさい。私に従うものが、他にも、すぐここに来るでしょう」 

 顔色は更に悪くなり、立っているのも辛いだろうに、彼女の瞳はそれに屈することなく燃えている。
 ああ、珠紀もまた、必死で戦っているのだとは自分を情けなく思うと同時に、二度と迷うまいと前を見据え強く奥歯を噛み締めた。

「帰りなさい」

 強く森に響く声。玉依姫の言葉に従うように、結界が、森が震えている。
 けれど彼女の言葉を否定するように、銀色の髪の男は自分の手の中に鎌のような武器を出現させると

「魂……」

 ただ一言そう呟き、ゆっくりとこちらへ向かって歩きだした。

 引きずるように降ろされた鎌が、男が歩くたび地面を削る。削られた土は鎌から放たれた瘴気に侵され穢されて、やがて周りを侵食していく。
 さっきまでとは違う、得体の知れない狂気。普通の人間だと思っていた分、恐怖が増して心が悲鳴をあげた。
 
「……喰わせろ。魂」
 
 男が呟く度、自分の魂が穢されてゆくような感覚が、身体の中を駆け巡る。
 けれど、こんなことに脅えている場合ではないと何度も自分に言い聞かせは強く相手を睨み付けた。

「冗談じゃねえ! てめぇに食わせるものなんて何一つねぇんだよ!!」

 突然、穢れた空気を払うように真弘が大きな声をあげた。

「珠紀、! まさかビビッてんじゃねぇよなぁ? この鴉取真弘先輩様がついてるんだ、何の問題もねえ。大船に乗った気でいやがれ!」
「……泥舟の間違いじゃないっすか」
「うるせー拓磨! 後で覚えてやがれっ!!」
「おー、こわっ」

 余裕なんてひとつも無い筈なのに、わざとおどけるように真弘はにニヤリと笑って見せる。
 自分たちを庇うように前に立つ二人の背中は頼もしくて力強くて、怖がっていた自分がバカみたいだ、この人達が居れば負けるはずないのだと
は真弘に負けないぐらい大きな声で叫んだ。

「びびってるわけないじゃないですか! 余裕ですよ鴉取先輩!!」
「おう! それでこそ俺の後輩だ!!」
「わ、私だって戦えるんだからっ!」
「いや、珠紀。お前はちょっと大人しくしてろ……」
「……同感っす」
「ちょっと、なによーー!!」

 この扱いの差はなに? と文句を言う珠紀に「仕方ないよね」とは眉を下げる。守護者に守られる立場にあるこの玉依姫様は
守られるだけは嫌だといつも無茶をする。現に今もそうだ。だから少しは大人しくしていてくれと言う真弘の言葉も尤もだと頷いて
は珠紀の前に出ると両手に力を込めた。
 怖さは……まだある。けれど平気だ。これからも悩むことはあるだろうけれど、私はもう怯えたりも逃げたりもしない。

「……さあこい」  

 が呟くと同時に男の持つ大鎌がゆっくりと振り上がり、全員の身体に緊張が走った。

「喰イタイ――」
「待て。モナドは戦闘を禁じている。これ以上大事にするのは、まずい」

 戦いが始まる。そう思った瞬間、後方でこの状況を静かに見ていた黒い髪の男が声をあげた。

「…………」

 静かな森に響く低い声。その声に反応したのか、銀の髪の男は動きをピタリと止めると
後ろを振り返り、感情の無い瞳で黒い髪の男を見つめた。

「……行くぞ」
「…………」

 再度、黒い髪の男が目を瞑り、強く低く言い放つ。その声に銀の髪の男は何も言わず達を一瞥すると、ゆっくり鎌を下ろし
感情の欠片も見せないまま、何事も無かったかのように黒い髪の男の隣へ立つと跡形も無く闇に溶けていった。

「……一体なんだったんだ」

 一気に静けさを取り戻した森の中で、四人は呆然とその場に立ち尽くし、深い息を吐いた。

「……で、でも良かった。帰ってくれた」

 あははは。と、乾いた笑いを漏らしながら恐怖から解放された安心感からか、強張った表情の珠紀がぺタリとその場に座りこむ。

「だ、大丈夫? 珠紀さん……」
「……うん」

 青い顔で珠紀が自分を見上げて微笑む。その笑顔に頷いて、は震える両足を必死で宥め、地面に強く刀を突き刺すとそれに手をつき身体を支えた。
 物理的な攻撃は一切受けてはいないのだ。一番情けなかった自分が、精神的疲労を理由にここで倒れていいはずがない。

「大丈夫か、二人とも」
「はい、私は大丈夫。でも珠紀さんが」
「ううん、私も平気……だよ。でもちょっとだけ頭が、痛い……」
「……今頃かよ。全く無茶しやがって」
「ごめんね、拓磨……」
「二度とやるんじゃねぇぞ、こんな危ない真似」
「すいません、先輩……」

 以後気をつけますとしょんぼりとうな垂れる珠紀を見下ろしては苦笑する。
 玉依姫だから、ではなく――確かにそれもあるのだろうけど、珠紀のことを心の底から心配しているから真弘と拓磨は怒るのだ。
 それが分かるからは無言で頷いて、珠紀の前にスッと自分の手を差し出した。

「帰ろっか。珠紀さん」
「う、うん、そうだね!」

 腕にグッと力をいれて珠紀を立ち上がらせる。女の自分の力でも余裕で持ち上がる珠紀の軽さに少し驚いて
同時にこの華奢な人がさっきまで自分達を守ろうと必死になっていたことを思い出し、は彼女の耳元にありがとう。と囁いた。

「なっ!? ちゃん!!」

 途端に焦りだした珠紀にニッと笑ってはゆっくりと歩き出す。
 いつの間にかすっかりと陽が落ちて、辺りは紺色の闇に包まれている。そんな森を無言で歩くお互いの姿は、目で確認するのも難しく。
 けれどそのせいか皆が傍にいる気配は強く強く感じられ、ああ、みんなちゃんとここにいるのだとは安心の息を吐いた。
 
 ――途中「」と自分の名を呼ぶ声がして振り返る。
 
 するといつの間にかのすぐ傍に来ていた真弘が「頑張ったな」と頭を撫でて行った。

「…………」

 珠紀を守れたのか? と問われたら「いいえ」と答えるし、迷ったり怯えたりみっともない姿しか見せられなかった自分だけれど。
 でも、それでも真弘の一言が嬉しくて、は小さく微笑むと、自分を追い越し前を歩いて行く真弘の背にゆっくりと頭を下げた。