怖いことがあっても苦しいことがあっても、1日経てば守護者達は何事も無かったように笑っている。
 以前の私にはそれが少し不思議だったけれど、今は分かる気がする。
 
 彼らは、いつか崩れてゆくこの平和な日常を、必死で繋ぎとめている。

 確実に訪れる辛く悲しい未来。
 
 足音が聞こえる、崩壊の足音が。
 束ねられた細い糸は頼りなく、風に攫われ鋏によって断ち切られ。

 けれど今はまだその時ではないから。
 私はそこから目を逸らし、彼らと共に笑っていようと思うのです。
 
 
 『わたしの物語』 日常


「……あれ?」

 昼休み。いつもの時間より少し遅れて屋上の扉を開くと、既に全員が揃っていた。が、いつもの騒がしさが全く無く
守護者達は皆、どこか疲れた顔をしていて……はハテ、と首を傾げた。

「ど、どうしたの? みんなの顔色が良くないように見えるんだけど……」
「ああ、えっとね……」

 珠紀の隣に腰を下ろし、通常の音量でさえ出すのも何だか憚られるなぁと思い、何事かと小声で珠紀に訊ねると
昨日遭遇した相手の正体を掴む為にも封印を見に行くべきだと訴えたら、こんな微妙な空気になってしまったのだと言われ
は意味が分からず「はぁ」と曖昧な返事で頷いた。

 ――それがどうして疲れることに? もう一度周りを見渡して眉を寄せる。

 昨日の出来事は謎だらけだ。あの不気味な遭遇の後、真弘と拓磨に送られ宇賀谷家に戻ると
自分達以外の守護者が居間に揃っており、彼らもまた、封印の近くで見慣れぬ相手と何らかの形で対峙したと聞かされた。
 それから相手の正体について全員で話し合ってみたのだけれど、それぞれアイン、ツヴァイ、ドライ、フィーアと名乗ったのだが
これはドイツの数の数え方であり、偽名だろうということ以外は何も分からず解散することになってしまった。

「……ううむ」

 一つ唸っては眉間にシワを作る。封印に干渉しようとする相手なら正体は探るべきだし見回りもいつものことだ。
 なのにどうして珠紀さんに言われただけでこんなに疲れた顔になるのだろう? と珠紀に事の起こりを訊ねると
どうやら皆が微妙な顔になったのは彼女が「自分も連れてゆけ」と言い出したからだそうで
ああ、それなら何となく分かる気がするなぁとは拳を作り、もう片方の手のひらをぽんっと叩いた。

「あれだけ怖い目に遭ったのに『自分も行くから連れてけ』なんて珠紀さんに言われちゃったらさ、そりゃ守護者も困惑するよ。
 だって封印を見に行くってことは、あの人達に遭遇することになるかもしれないわけでしょ? そうなったら珠紀さんまた怖い思いをすることになっちゃうし。
 だからさ、敵の調査も封印の見回りも、守護者と私に任せておかない?」

 それが一番だと思うんだけどなぁ。と窺うように珠紀の顔を見ると、何故か彼女はムッとした顔をしていて
は「えっ……」と小さな声を出すと驚きに身体を震わせた。

「……まさかちゃんまで私のこと単細胞って言わないよねっ!?」
「え? へ? な、何!? い、言わないよっ、そんなことっ!!」

 思いっきり頬を膨らませた珠紀にじと目で睨まれ、は慌てて首を振る。思わない、思うはずがない、単細胞だなんて!
必死でそう訴えると珠紀は「だって真弘先輩がちゃんと同じようなこと言ってさ、単細胞だなって言ったんだもん……」と言って口を尖らせてしまった。

 ……またあの先輩か。拗ねる珠紀を見つめ、はふうっと息を吐いた。

 珠紀がどういう風に話し、真弘の『単細胞』という発言になったのかはその場にいなかったので分からないけれど、それにしても女の子相手に
単細胞だのとはっきり言って退ける鴉取先輩ってどうなの? とは眉を寄せ
こちらを気にすることなくいつもの調子で焼きそばパンにかぶりく真弘の、他の男性より面積のやや狭い背中を、珠紀に拗ねられた恨みも込め『ギリリ』と睨みつけた。

「え!? あのっ、ちゃん?」 
 
 ちゃん、今凄く怖い顔してるんだけど……そう言いながら「怒ってる?」と恐る恐る訊ねてくる珠紀に慌てて首を振り
はなんでもないよと笑ってみせる。いけないいけない、どうやら予想以上に私は怖い顔をしていたようだ。

「ご、ごめん。あー、のさ、珠紀さん。ほんと〜に一緒に封印を見に行くつもりなの? 怖い思いをするかもしれないのに」
「あ、そのことね。それは……うーん」

 そして慌てて目線を戻し、誤魔化すように笑って平気なのかと珠紀に訊ねると、彼女は顎に指をあて、何かを考えるような素振りで口を開いた。

「そこは大丈夫じゃない? だってほら、危なくなったらみんなに守ってもらうし」
「…………え?」

 首を傾けて「ね?」と笑う珠紀の無邪気な姿につられ、コクリと頷きかけてハッと我に返る。いや、ちょっと待て、珠紀さんはいま何と?
危なくなったら皆に守ってもらうとか……いやまあ確かにそうなったらそうなるんだけれども。

ちゃん?」
「……あっ、う、うんっ!!」

 ――あれ? ひょっとしてこれは鴉取先輩ばかりを責められないのでは……。

 ふと心に浮かんだ疑問を打ち消すように首を振り、自分の顔をじっと覗き込んでくる珠紀の顔を見ながら
引き攣りそうになる口の端を精一杯持ち上げて訊ねた。

「珠紀さん。もしかしてそれって……他力本……」
「あ、あのね、私ね!」
「う、うん?」
「多分……なんだけど、私と封印は繋がってる気がするの。だからそれを確かめる為にも封印の場所に行きたいなって。
わ、私の身体の異変が封印と関係してるならいつかきっと役に立つと思うし!!」

 の言葉を遮り、真剣な眼差しで訴えてくる珠紀の勢いに押され、結局はコクリと頷かされて眉を寄せる。
 まぁ、封印と関係があるというのなら、行った方がいいような……でもダメなような。
 敵と遭遇したら後悔するどころの話じゃなくなるのは分かってる。けれどここでゴネても守護者も私も彼女の言うことには逆らえない訳で。
 ああなるほど、だから守護者の皆は疲れた顔をしていたのね。と、は珠紀に向かってニッコリと微笑んだ。

「分かった。私は珠紀さんと一緒に行くよ」
「ありがとう!! ――」
「……しっ、誰かいるな」

 満面の笑みでこちらに飛び込んで来ようとする珠紀を受け止めようと、が両手を開いたところで突然、昇降口の扉を見つめたまま祐一が呟いた。

「……え?」

 緊張の色を含んだ祐一の眼差しに、和やかになりかけた空気が一気に固まる。
 そして全員の目線が扉に集中するとタイミングを計ったように鉄の扉が開かれて……学園の教師フィオナが現れた。

「あなたたち……こんなところで何をしているの? もうすぐ授業、始まるわよ?」
「あっ、あのごめんなさい!!」
「ふふっ、冗談よ、冗談」

 突然現れたフィオナに驚き勢いよく立ち上がった珠紀が慌てて頭を下げると、警戒心剥き出しの拓磨がフィオナを睨みつけた。

「……なんでこんなところにいるんだよ」
「ここは教師である私もお気に入りの場所なのよ。それに、先生は来ちゃダメって校則は無かったはずだけど?」
「…………。そう……っすね、すいませんでした」

 鋭い視線に気を悪くする素振りも見せずニッコリ微笑むフィオナの態度に、拓磨は「ぐっ」と声を詰まらせると気まずそうに頭を掻いて小さく頭を下げる。
 そんな二人の遣り取りを無言で眺め、流石先生は大人だと関心したように頷いてみたものの、拓磨の気持ちも良く分かるとは眉を寄せた。
 フィオナは美人でスタイルが良く、先生として尊敬できるし女性としても素敵だと思う。
 同性から見ても非の打ち所がない完璧な女性に見えるのだが、どうしても拭えない違和感があるのだ。
 最初は、無意識に嫉妬でもしているのかと思ったのだが……考えれば考える程、そうじゃない。と、頭の中で何かが訴えているような気がして。
 は珠紀を庇うようにフィオナの前に立つと、彼女を見つめて口を開いた。

「……フィオナ先生、ひょっとして今の話、聞いてました?」

 拓磨のように。とまでは行かないが、微かな警戒心を瞳に漂わせてフォオナを見る。するとそんなの感情を理解したのかフィオナな困ったような顔で笑い

「少しだけね。どこかに出かけるみたいな話だったけど、遅くならないようにするのよ、最近は物騒なんだから」

 そう言って肩を竦め、それじゃあと校舎の中へ戻って行った。

「一体、何だったんだ……」
「……うーん。私にも分からない」

 突然現れ、突然去っていったフィオナを見送り、は拓磨と二人目線を合わせて「ふう」っと息を吐く。何故だか分からないけれど酷く緊張した。
 そう思い、気持ちを落ち着かせようと大きく息を吸い込み一気に吐き出そうとしたのだが、狙ったかのようなタイミングで暢気な真弘の声が聞こえ
は喉に空気を詰まらせ「うっ」と呻いた。

「セクシーだ。やっぱり美人はいい……」
「…………」
 
 ……またか。突っ込みたい気持ちを押し込んで、は真弘に目線を向ける。先輩に悪気が無いのは分かってる、分かってるからとても怒り辛い。
 でもだからって胸の中に渦巻くこの感情を無かったことには出来ないと、は真弘に向かってわざとらしく大袈裟な笑顔を作った。

「鴉取せーんぱいっ。先輩って面食いなんですねぇ〜」
「おう、んなもん当たり前だろうが! 俺様とつりあうのは美人しかいねぇんだよ」
「…………へえ」

 嫌味なほど明るいの声に気づきもしないで真弘が胸を張る。そんな彼の態度に一瞬、毒を抜かれかけただったが
これではいつもと同じだと、素になりかけた顔に気合を入れ、再び笑顔を作る。
 と、そんなの努力に気がついたのか、それとも単なる偶然なのか、何かを思い出したらしい珠紀が「あ、そうだ」と声をあげ自分の手をポンと叩いた。

「それと、巨乳。だったかな、真弘先輩の好みって」
「――!? お、おいっ! な、な、な、何言ってやがんだ珠紀!!」
「ああ、確かに真弘はそういう女性も好むな」
「コラッ祐一! おまえまで変なこと言ってんじゃねぇよ!」 

 真っ赤になって慌てふためく真弘を眺め、はニタリと笑う。成る程、鴉取先輩は意外とこういう話に弱いのか。
 思わぬことで真弘の弱点を見つけたは心の中でガッツポーズをとると、仕返しするなら今しかない! と
制服の上から両手をそっと自分の胸に乗せた。

「…………お、おい、。おまえは一体何やってんだよ」

 動揺しながらも、キッチリの行動に突っ込みを入れてくる真弘に『しめた』とは心の中でほくそ笑む。
 ――ふふふ、鴉取先輩焦ってる焦ってる。けどまだまだこれからですよー? せ・ん・ぱ・いっ。
 今までのお返しはキッチリさせてもらいますからね。そう心の中で呟いて、はわざと何も分かってなさそうな表情を作ると真弘に向かって口を開いた。

「えっと、美人かどうかというのは何とも言えませんけど、私、胸だけは結構あるなって思って」

 そう言って無邪気を装いふふっと笑うと、真弘がぐっと息を飲んだ姿が見えた。

「むっ、胸っておまえ!! なに恥ずかしいことしてんだよ!」
「え? いいじゃないですか。自分のなんだから」
「うるせぇ! 自分のだからって男の目の前で堂々と、さ、触ってんじゃねぇ! 恥じらいってもんはねぇのか恥じらいってもんは!」
「恥じらい、ねぇ……それを気にしなければならない男性ってここに居ましたっけ?」

 ため息を吐くようにそう言ってわざとらしく周りを見渡す。そして目線の先に祐一、慎司、拓磨の姿を捉え、は「あっ」と小さな声をあげると
胸に手を添えたまま恥らうように頬を染め、彼らに背を向け俯いた。

「お、おまえっ! なんであいつらのこと意識してんだ! おかしいだろっ、俺のことも意識しやがれ!」
「え? い、意識するんですか!?」
「――!? あ、え、い、いやっ! だぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! もういい! バーカ!!」
「はぁ? バカってなんですかバカって!」

 バカ。と真弘に言われた途端、余裕だったの顔色が変わる。
 毎回毎回言われる言葉だから流石に慣れたつもりだったけれど、それでもやっぱりムッとしてしまうわけで。
 よぉし、そっちがその気ならこっちだってとことんやってやる!
 と、は自分達のやりとりをぼんやり眺めていた珠紀の手を勢い良く掴むと、強引に自分の胸へと押し当てた。

「ええええええええええ!? ちゃん!!」
「ちょっ!? ! おまえなにやって……」
「どう! 珠紀さん!」
「へ!? ど、どうって……ええええっ!?」 

「「「………………」」」
 
 呆然とこちらを見ている真弘の顔を挑むように見つめたまま、は珠紀の手の平ごと自分の胸を下から上へと持ち上げる。
 それを何度か繰り返し、意見を求めるように「ね!」と勢い良く珠紀の方へ視線を向け、そこでやっと耳まで真っ赤にさせ俯いている珠紀の姿に気づき
は『しまった! やり過ぎた』と心の中で呻いた。

 ――マズイ。これはどうしよう……

 冷静になった頭で改めて周りを見渡す。と、呆れているのかそれともかける言葉が見つからないのか
離れた場所から無言で自分達を眺めている祐一、拓磨、慎司の姿を見つけ、の頬がピクリと引き攣った。

「うわぁぁぁぁ。……ご、ごめん。珠紀さん」
「……いえ。私も変に動揺しちゃって……。あ、あの、さんは非常に立派なお胸をお持ちで羨ましいというか……」
「あああ! 律儀に感想言わなくていいから〜!」
「ええっ!? だってちゃんが『どう!』って聞くから〜」
「立派……なのか」
「なっ!? あ、あ、鴉取先輩のえっち!!」
「はぁ!? な、なんで俺なんだよっ!」
「だって今! 先輩の視線が凄くエッチだったもん!」
「な、なにを根拠に! つーかおまえが全部勝手にやったんだろうがっ! なのにエッチってなんだエッチって!」   
 
「「「…………ハァ〜」」」

 遠くから、三人分の深いため息が聞こえてくる。
 ――ええ、分かってます、バカなことをやってしまったってことぐらい。けど、この状況をどうやって治めればいいんか分かんないんです……。
 呆れ顔の三人の姿を横目に見ながらは心の中で絶叫する。誰か、自業自得だと充分理解しています、していますから今すぐ助けてください!! と。

のバーカ」
「う、うるさいっ! バカって言う方がバカなんだもんっ!」

 ……けれどその願いも虚しく。真弘との言い争いは巻き込まれた珠紀を間に挟み
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまで延々と続けられたのだった。